檜山真有
また出会ってしまった。もう運命の相手かもしれない。そう、ヒト・シュタイエル。私が初めて彼女の作品と出会ったのは、2015年のヴェネツィア・ビエンナーレ、ドイツ館での展示である。その時、檜山真有21歳。その後も大阪や茨城でも彼女の作品を観る機会があったが、またもや、出会ってしまった。今度はバーゼル。その時、檜山真有24歳。3年越しでのヨーロッパでの偶然の再会。
ヒト・シュタイエルの作品の凄さは、その抜かりない空間構成と、どのような展示においてもそれを高いレベルで仕上げるクオリティである。このような技術面の細やかさは非常に重要で、何故ならば、鑑賞者に安心感を与えるからである。例えるのであれば、ヒト・シュタイエルはヒルトンホテルやマリオットホテルのようなどこの国に行ったとしても変わらぬクオリティを提供してくれる高級ホテルなのだ。私は彼女が彼女の空間と映像のためにしつらえたソファに座り、そういえばヴェネツィアでもこうしてゆったりと座りながら映像を観たわね、なんて懐かしくなる。
さて、では何故人は異国において安心したいと思うのだろうか。街も言葉も違う、文化も、宗教も、食事も違うから?そうではないだろう。もし、そうだと断言するのであれば、そもそも我々が世界ではなく、地球という惑星の中で生きていることに無自覚なのではないだろうか?人間は時差を乗り越えることができないから、不安になるのである。母国と今ここにいる場所の間の二つの時間軸で生きようとするとき、距離以上に途方もなく広い世界に放り出されたと錯覚するのだ。断言しよう、人間はいずれ宗教や言語の障壁を乗り越えたとして、時差を乗り越えることは不可能である。どうしたって、ヨーロッパに太陽が昇れば、日本で太陽は沈みかけている。
およそ、遠く離れた国と国とを結びつけ世界を一つにしようとした技術が通信だと思うが、これらは相手が見えないときの想像力を一気に肥大化させる。通信は、人の感情という極めて個人的なものにまで潜り込むと、夢も希望も不安も一気に喚起させていることも間違いないだろう。それをオリエンタリズムと呼ぶこともできるだろう。だが、私が述べたいことは世界に対する眼差しで行うマウンティングの類ではない。何故なら訪れた先で生きる人たちは、食べて、寝て、おしゃべりをする。さして我々と変わらない生活をしているからだ。そういう意味では文化など微々たる差異でしかない、だからこそ重要なのではあるが。
その微々たる差異を徐々に大きなものにしていくのが時差なのではないだろうか。そして、我々が時差を痛感するのは通信によってである。例えば、テレビ中継なんかはそうだろう。もっと卑近な例を出せば、SNSはまさしく時差によってクラスタ分けされている。こちらが夜なのにも関わらず、フォローしている友人たちが「おはよう」などとつぶやくタイムラインにはノレない。通信の速さの恐ろしいことは、流行や情報がめくるめくスピードで変わっていくことで、それは実際にそこにいないと分からない。実際の見聞ではなくて、集団がそこにいるという空気感が重要なのだ。それは通信が見えないものに対する想像力を肥大化させていることに他ならない。
この想像力の発達こそが各々の地域の文化を形成する上で役に立ったのではないだろうか。見えない他者を想像すること、見えない他者が何者であるか、何が同じで、何が違うのかを考えることは時差を埋めることはできないが、世界を我々のものとして掌握していくことができる。つまり、時差を意識しつつ、同時代を生きていることを知るのである。
ヒト・シュタイエルの作品は世界中の人がもはや見慣れているであろうゲームやCGを用い、均質で国家や慣習を超越したもののイメージを形成していく。しかしながら取り扱うテーマである中近東で長く続く争いの問題は、そのイメージの背景こそが均質なものに見えるからこそ強烈な印象を与える。そのとき、我々は時差と似たような実際の距離以上の距離を感じてしまう。彼女の作品はリアルの問題でありながら、リアリティがない。だが、彼女の作品は全て異なる独立した映像作品のように見えて、大きなひとつの映像作品として連続していることと、彼女が世界中で展覧会を行うことは、彼女のインスタレーションの領域と作品の中にある正義を拡大させ続けてもいる。リアリティをどこに設定していくかということを彼女は観客に投げかける。その姿勢は、今、この世界を我々のものとして掌握していく極めて正しい想像力の働かせ方と行動力である。
彼女の作品の連続性と同時代性は、この通信速度の速すぎる世界なのにも関わらずヴェネツィアで、大阪で、茨城で観た蓄積がないと気づかないことを含ませている。人は行動して、移動して初めて気づくこともある。人、主体得るってことなのかな、なんつって。
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